三奇術

文久元年8月に佐賀藩は、西洋医学を学んだ者のみに開業許可を与えることにした。「佐賀市史」より引用。
「西洋法の儀 治療は申すに及ばず 製薬等を始め諸事情密にこれあり候処より形の如く仰せつけ置かれ候処 宿習に泥み御趣意一貫いたしかね候通りにては決して相すまざる儀候条 漢方の向々一切取り止め西洋法に相改め候様 仰せつけられる儀候につき 尤も差しつけより取り止め候通りにては難渋の向きもこれあるべく候条 御城下最寄より遠在にしたがい 左に書載の通り年限相立てられ候間 それまでの内研究を遂げ吃度相改め候様 惣じて開業免札は西洋法熟達の向のみ かつがつに相渡され 自然右年限中相改めざる向は余儀なく〆留仰せつけらる義候条 此段筋々懇に相達さるべく候 已上」
なお、中村久子氏「解剖のはなし・幕末佐賀藩の場合」(部落解放・人権研究所編「続・部落史の再発見」)には、これにより翻弄された多久領の医師の例が紹介されている。


納富春入は三奇術を行ったとされる天保期の名医。三奇術とは、切腹し損ねた者の腸をもどす、陰嚢腫を切断、陰門に情夫が挿入した木片を抜き取るの3つ。鍋島直正公伝による。


弘化4年に脱稿した深江順房の著作「丹邱邑誌」に多久領の名産が記載してある。品目は次のとおり。深江は学者であり、この著作にも漢語が多用されている。岸川の餡なしまんじゅうが「麦饅頭」としてあげられている。
 大蘿蔔(ダイコン)、大牛蒡、楊梅(ヤマモモ)、麻苧、煙草、灰乾苔、李(スモモ)、枇杷、鯉、年魚(アユ)、櫨、楮、甘藷、柿、蓙(ゴザ)、白土、赤石、甕、芋、割石、石炭、塩硝、茯苓、柴胡、桔梗、半夏(以上4者は漢方薬の材料)、紙、薯蕷(ヤマノイモ)、赤土、黄土、鰌(ドジョウ)、葛、麦饅頭、米饅頭


唐津町方支配17町
本町 呉服町 八百屋町 中町 木綿町 京町 刀町 米屋町 紺屋町 平野町 新町(以上内町)
材木町 大石町 魚屋町 塩屋町 東裏町(以上外町)
江川町
札ノ辻橋が内町と外町の境。現在の曳山を出している町とは若干異なる。例えば水主町は町方支配ではなく地子を徴収されていた。


鳥栖市史資料編第四集「近世鳥栖商業資料」所収の「犬丸家文書 嘉永五年日記」には、幕末の佐賀藩の櫨蝋政策にかかわる記載がある。


鍋島直正忠勲碑は副島種臣の文、書による。