日本道徳思想史

家永三郎「日本道徳思想史」(岩波全書 1954年 1977年改版)で論じられている葉隠
「武士が軽々しく人の命を奪って割合に平気でいたのは、(中略)武士が戦闘によって自らの生命を軽くし敵の生命を断つことを職能としていた事情にもよる。武士が命を惜しまないのを本領としたことは、世間によく知られているところであり、前にも少しく触れた。それが世評を恐れる外聞に拘泥するものであったことも既に指摘したとおりであるが、それにしても、武士の場合、何といっても生命を賭しての仕事であったから、単なる「人わらへ」を気にする貴族の場合よりは、はるかに真剣な生活態度を生み出し得たのであって、そこに武士の道徳思想が貴族のそれよりも一段の進歩をとげていることは認めなければなるまい。「武士道といふは死ぬ事と見つけたり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜なり。図にはづれて死にたらば、犬気違なり、恥にはならず。」(葉隠)といった精神は、そうした生命を軽くする態度を極限にまで推し進めたものとみることができよう。」
「主従道徳が主従の結合以上の広い社会意識をもち得なかったことは、この時代に入ってもやはり同じであった。大名領国、すなわち藩という社会圏が意識されるようになったのは一つの進歩であるけれど、武士にとっては藩が最大の社会の単位であり、民族とか人類とかいう社会意識を持つことはできなかったのである。有名な「釈迦も孔子も楠木も信玄も、終に龍造寺鍋島に被官懸けられ候儀これなく候へば、当家の家風にかなひ申さざる事に候」(葉隠)という鍋島藩士の言葉は、狭隘な藩の外に一歩も出ることのできなかった封建武士の精神を最も露骨に表明している。」
「現実にはしばしば武士本来の要求は泰平の観念である儒教の道学と衝突せざるを得なかったのである。葉隠に、御台所の手男が足軽に打擲されたというので相手を切り殺したとき、年寄は「上下の礼儀を相違へ」たという罪名で手男を死罪にと申出たところ、鍋島忠直は「上下の礼儀を背き候と武道を迦し申し候とは、何れ越度なるべきや」と答えた、という事実を伝えているが、「上下の礼儀」と「武道」とはここで二律背反の関係に置かれているのであった。」
葉隠に「鍋島の先手が愛宕など頼みて成るべきや。向ふに愛宕権現立ち向はれ候はば、真中二つに切り割りて先手を勤むべくと存じ候へ」と言い、(中略)いずれも江戸時代の武士の思想から宗教的心情がしめ出されたことを物語る例となすに足りよう。」
「雇傭関係も家族関係も、すべて主従君臣の関係とみなされたのであって、(中略)商家使用人の心得は、「忠孝と云ふは無理なる主人無理なる親にてなくば、知れまじきなり」(葉隠)という武士道の教訓丸写しであったのである。」


寛永正保ころに著された「毛吹草」所載の肥前の名産には、既に唐津伊万里の焼物がある。また、米、ムツゴロウ、海茸、メカジャ、アミ、アゲマキなどがあげられている。なお、玉島川のアユが筑前の名産にあげられている。


宝暦12年に、多久屋敷に勤める被官原幸助と、同じく下女の瀧川の密通が明らかになった。2人とも死罪を仰せ付けられたところ、原幸助は急病で処刑前に死亡した。瀧川は妊娠していたため処刑が猶予された。翌年5月に生まれた子どもは穢多に引渡し捨てるよう指示された。捨てるというのは文字通りの意味なのだろうか。中村久子氏「多久家「御屋形日記」から」(佐賀部落解放研究所紀要8号)による。


中村久子氏「多久家「御屋形日記」から」(佐賀部落解放研究所紀要8号)所載の史料によると、宝暦9年に多久屋敷は女中の募集を行っている。16、7歳から20歳までの三味線を弾く者と35、6歳から40歳までの針仕事のよくできる者を募集。御歩行までのランクの者を希望しているが、適当な者がいない場合は足軽の格でもよいとしている。


古賀毅堂「済急封事」は「佐賀県教育史」第1巻に所収。


「佐賀部落解放研究所紀要」13号の中村久子氏の史料紹介「多久家『御屋形日記』から」の安永4年2月18日条は、幕府が前年10月に出した触書の写しである。内容は「御触書天明集成」3105号と同じ。多久領に触れ出されるまで約3か月半のタイムラグがある。内容は、浪人が村々の百姓家におしかけ、金銭を要求したり、旅僧、修験、瞽女、座頭などが宿を無理に借りることなどがあることから、これらの者があった場合は、召し捕えて代官や領主のもとに召し連れよというものである。なお、この中で「少分之合力銭抔進候得は」という記述があるが「御触書集成」では「遣候」とある。文脈からはこちらの方が正しいと思うが如何。


「日記抜書」(鳥栖市史資料編第一集)によると、明和5年10月に、対馬藩田代領内に80歳以上の者は男56人女65人の都合121人いた。ちなみに、平成12年10月の国勢調査では基山町だけで911人が80歳以上である。また、「日記抜書」には善行のあった者等へ褒美をやった旨の記述があるが、そのときに朝鮮木綿なるものを褒美としている。田代領ならではの褒美と思われる。


葉隠研究」46号に、江藤茂國「曽祖父新平卿を憶う」が掲載されている。その中で江藤氏は万部島の佐賀の乱の弔魂碑の台座が亀であることについて、佐賀城を金立山から見ると、亀の甲のように見えるからだとされている。私は今まで、中国伝来の亀趺碑の伝統を継ぐものと思っていたが、誤りなのであろうか?あるいは両様の意味を込めているということなのだろうか?素朴な疑問だが、金立山から佐賀城が見えるのだろうか?


蒼井優宮崎あおいの区別がつかぬ。