小川嶋鯨鯢合戦

支藩 小城 蓮池 鹿島   親類 久保田 白石 川久保 村田   親類同格 武雄 多久 諫早 須古  家老 横岳 神代 深堀 姉川 倉町 太田
主たる知行地は、横岳=続命院 神代=神代 深堀=深堀 姉川=坊所 倉町=千布 太田=西尾


天保11年の捕鯨の記録である「小川嶋鯨鯢合戦」(日本農書全集第58巻)によると、鯨を捕り、浜で解体する際、唐津から藩の役人が出張し監視をした。その目を盗み、近隣の者が包丁で皮や肉を切り盗む慣例があったという。これを「かんだら」(間太郎)と称している。


文久2年に佐賀でははしかがはやった。野口家日記(日本農書全集第11巻)の記述。
「五、六月の暑気に付甚だ病もはげしく相成候。麻疹はくだしの付て死ぬ人もあり、又くださず毒気のせめて死ぬ人もあり。先一けんの家に三、四人も死ぬ家もあり、又一人も死なぬ家もあり。先おしならし麻疹人に三部通り斗りは死に候。そのあい間にはおふしや(嘔瀉)、くわくらん(霍乱)是又はげしく候。皆一同病いのたたかい候ては、医師の手も思ひのままに行届かず、又世間も一同なれば、どのやうにはげしくても医師の立合といふこと出来申さず候。」


天保11年加賀大聖寺藩から九州の虫害防除の調査に遣わされた者の報告書である「九州表虫防方等聞合記」(日本農書全集第11巻)に久里村の肝煎藤八なる者の言として、南風が7、8日もふくと田が蒸れて虫が発生するとある。害虫が南風に乗ってやってくるということであろう。この本の月報所載の岸本良一氏「ウンカと南風」によると、1967年にウンカの大群が潮岬南方海上で発見され、はじめてウンカが南から日本に飛来することが証明されたという。梅雨の時期に日本付近にできる低気圧に向かって吹き込む南風に乗って飛来するとされている。


文政12年に大坂の商人高木善助が著した紀行文「薩陽往返記事」に、「佐賀城下通り町筋町数十八丁、其余城下外町多し、町の半程木戸を出て牛頭天王の社あり、是より二丁計の間、白山町といふ、城下中にて第一の町並みあり、其外は町並藁葺多く、奇麗にはなし、御城は往還町の後ろ林中にありて見えず」とある。佐賀城下町を通る長崎街道は約4キロにわたっていた。


天明3年に佐賀藩は徒罪の制度を採用した。徒罪に処せられた者は髪をザンギリにされた。