丹邱邑誌

深江順房「丹邱邑誌」に、寛文12年に出された、鶴、雁、けり、かちがらす、鷭、青鷺、五位、尾長鳥の猟を禁じ、野雁、鷲、川獺、くま、鷹、狼は禁猟区においても見次第打ち留めてよい旨の多久領主の達の記載がある。当時の多久に鶴や鷲や熊や狼やかわうそがいたということになる。かわうそについては、「多久市史」第1巻に明治時代にかわうそがいたことを示す史料があげられている。熊がいたとはにわかに信じがたいが本当であろうか。また、かちがらす(韓国ではカッチというそうだが)の猟をあえて禁じているということは、これが現実には猟の対象になっていたということであろう。「佐賀県の歴史」(山川出版社 1972年)には、享保の頃、カササギを落として羽根を矢の材料として藩の武器庫におさめたということが紹介されている。なお、中国で発行の「科学時報」2000年1月21日付けでは、中国でカササギを食べている例が紹介されており、当時の多久でも食っていたのかもしれない。「けり」は鳬と書くと思われるが、近畿北部に生息し冬に南に移ることがあるという千鳥のことなのか、鴨のことなのか。雁と野雁はどう違うのだろうか?


1943年2月20日に松原神社青銅大鳥居が供出され、献納奉告祭が行われた。当鳥居は文化14年に城下の本陣野口恵助が寄進したもの。


長崎の諏訪神社祭礼の山車、鯨挽は、小川島の鯨組三代目中尾甚六が安永5年に長崎に赴いた際、愛宕神社の祭礼の山車であった米挽を変えさせたものが続いたものという。長崎市史による。


新潟県士族桜井虎太郎なる者が明治7年11月に書いた「佐賀三潴ノ二縣派出中捜索書」という史料がある。(国会図書館所蔵「三条家文書」) 「佐賀市史関係史料調査目録」に所載だが、解題によれば、彼は政府が派遣した密偵で、史料は佐賀の乱後の各県の情勢を報告したものである。その中で、馬渡島のことを下記のように記載している。
馬渡(ハタラヰと振り仮名を振っている)島は戸数二三十戸ほどで全島ことごとくキリスト教である。(この点、事実と異なる。)
今般、県庁で戸籍帳取調べのところ、キリスト教には氏神及び寺院がなく、戸籍法のように記載することができない旨訴えがあった。
これに対し、県令が、現在はキリスト教であっても、昔は他宗であって、氏神及び寺院もあったであろう、そこで、このたびはひとまず、住民には示さず、区長(大区の長)のはからいで昔の氏神等を記載すると述べ、庁議が決し、区長に命じた。


新潟県士族桜井虎太郎なる者が明治7年10月に書いた「佐賀三潴山口ノ三縣派出中捜索書」という史料がある。(国会図書館所蔵「三条家文書」)
佐賀市史関係史料調査目録」に所載だが、解題によれば、彼は政府が派遣した密偵で、史料は佐賀の乱後の各県の情勢を報告したものである。当時の佐賀の状況をうかがう興味深い内容を持っているが、その中で、佐賀は各地でどろぼうが多いとされている。


江藤冬雄著「南白江藤新平実伝」では、いわゆる娼妓解放令について1節を割いている。その中で有名な「娼妓芸妓は……牛馬に異ならず」について、著者は「これは少々驚き入った命令だが、これくらい手酷くせねばいけないと南白は思ったのであろう。」と片付けている。 30字×26行の2段組で500ページという大部の伝記にしてこの記述、問題意識のしからしめるところか。


呼子町内の鯨の供養塔。「呼子町史」等による。なお、「唐津市史」には同様の記述はない。
龍昌院鯨鯢供養塔 文化10年建立。正徳4年に鯨鉾組松尾好太夫が創建したものを再建したものという。
龍昌院鯨鯢千本供養塔 天保2年建立。
中川氏鯨供養塔 彦の山中川氏墓地内 延享5年建立。
小川島鯨供養塔 観音堂境内 文久3年建立。