あんじゃいもんはおんさるかんた

「さがの女性史」において、北川慶子氏は下記の布告、いわゆる娼妓解放令について、「その理由はおよそ女性の人としての権利を全く無視したものであった。すなわち娼妓は人としての権利も含め、すべてを楼主に金銭と引き替えに売り渡したものであるために、人としての権利はなく、したがって牛馬に対し返済を求めることがないのと同様に、娼妓に対しても求めないという内容のものであった。」と書いている。この布告の牛馬云々の文言は、まさに、当時の娼妓のおかれていた法的な関係を政府がどう解していたかを、あからさまに表現したものであって、この布告により、娼妓を牛馬同然の地位に貶めたものでないのは明白である。また、この解釈というかレトリックを採用したからこそ、娼妓の借銭を帳消しにし得たものである。無論、現在から見れば、そもそも娼妓たちの人間としての権利を侵害していることが公序良俗に反し、あってはならないから、貸借契約自体が無効ということにしなければなるまいが、あるべき姿と当時の実態とを混同することはおかしい。なお、このことは、娼妓解放令の救済の対象となるような人々が、その後、必ずしも人間としての権利を享受できなかったこととは別問題である。
明治5年10月2日太政官布告第295号
「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致。右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事。」
明治5年10月9日司法省第22号
「同上ノ娼妓・芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラズ。人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ。故ニ従来同上の娼妓・芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ、一切債ルベカラザル事。但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニアラズ。」


兵庫小学校敷地内の忠魂碑は真崎甚三郎大将の筆。石井樋にある成富兵庫の顕彰碑は副島種臣の筆。背面の碑文は久米邦武の撰。明治24年の建立。


芥川龍之介の「長崎日録」の大正11年5月15日の項に、「蒲原春夫来り、僕のために佐賀の俗を語る。佐賀の人、兄はいるかと云うを、『あんじゃいもんはおんさるかんた』と云うよし。ほとんど南蛮鴃舌の感あり。また破落戸(ごろつき)を「いけばよし」と云うよし。一笑するに堪えたり。」とある。ちくま文庫芥川龍之介全集8から引用。また、同じ本に所収の「蕩々帖」にも同様の記述がある。
蒲原春夫は長崎市生れの小説家で、芥川龍之介に師事し、「近代日本文藝読本」の編集を手伝った人だそうだ。鴃舌とは、もずの鳴き声転じてやかましくて意味の通じない異民族のことば。「孟子」に「南蛮鴃舌」の語がある。


葉隠聞書六」の記載によれば、江戸時代に佐嘉、神埼の文字を使っているのは、将軍家綱の代替りに佐賀藩が郷村帳を幕府に提出した際に、佐賀、神崎と記載したところ、幕府より、以前の帳面には佐嘉、神埼とあるのだから、以前のとおり記載するようにとの指示があって、書き替えて提出し、以後この文字を使うようになったとのこと。ただし、鉄砲改めの帳面には、以前は佐賀と記載していたという理由で、佐賀に書き替えた経緯から、佐賀の文字を使うことになったとのこと。しかし、これらの帳面とは何を指すのであろうか?


近世長崎は総町79ケ町、元亀元年の段階では島原町、分知町、大村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町の六ケ町。総じて他領の地名のついた町名が多く、長崎が人工的につくられたことがわかる。


1937年5月9日に、勧興小学校で大楠公銅像、葉隠之碑竣功除幕式が行われた。楠木正成銅像の台石には佐賀出身の南部麒次郎陸軍中将の「七生報国」の文字があった。金立黒土原の葉隠垂訓碑は1935年にできている。碑文は武富時敏の筆、文言は鍋島徴古館長西村謙三の撰。「肥前史談」のバックナンバーを見ているとこの頃から「葉隠」についての記事、文章が目立ってくる。敵国と戦う雰囲気づくりの小道具として「葉隠」が使われている。


「交叉点で」(書肆草茫々 2006年)には、西村聰子氏や細川章氏などの感銘深い文章が収められている。