馬責馬場

かつての塩田港は、塩田川の付け替えにより、本流ではなくなってしまった。現在は公園化している。


大財聖堂址を示す石碑は大財1丁目、長楽寺より北にはいったところにある。付近には聖堂橋という橋もある。また、創設者の武富廉斎の名を採ったれんさい橋という橋もある。


片田江七小路、馬責馬場小路、通小路、椎小路、花房小路、中の橋小路、枳小路、会所小路、椎小路は貫通道路、馬責馬場の一本北が長崎街道。貫通道路は昭和12年に完成。


大正11年に神野村は佐賀市に編入された。当時の神野村助役小林常作氏は、編入に伴い、佐賀市社会課主任となり、その後、水道課経理主任を経て、昭和5年4月に税務課長、昭和7年11月15日に助役の次の地位である庶務課長となったが、昭和10年2月21日に助役に辞表を提出した。この折、市当局は彼について、「円満主義の好人物であるので庶務課長としては荷が重過ぎる」と評したという。なお、3月9日に解職の辞令が発令されたという。以上、「肥前史談」8巻2号掲載記事等によるが、当時の県都と周辺の村との格や庶務課長なるものの職責の性格など考えさせられるものがある。 


昭和38年版佐賀市政要覧の表紙には、当時の市長筆による「葉隠四誓願」がレイアウトされている。
そして、次ページには「葉がくれ四誓願」とは、『肥前論語』又『鍋島論語』と云われ、佐賀武士道の典経(ママ)として伝えられる『葉隠』の心髄である。」との解説が記されている。以前の要覧にはない。


テレビでよく映される六本木ヒルズの毛利庭園と称する場所に行ったことがある。想定外のしょぼさに驚いた。