竜涎香

石川の酒「守礼」を飲みはじめる。


1949年末に、軍施設の整備とともに、嘉手納牧港間の道路は三線、牧港那覇間は四線にする計画が発表された。58号線が嘉手納まで他の道路に比し広い幅員であった所以である。


1892年に沖縄県知事が海軍省南波照間島の探索を要請したが断られた。


マッコウクジラの分泌物で香料となる竜涎香は、マッコウクジラの体外に放出されたのち、灰白色の塊になって海岸に打ち上げられる。琉球の海岸に打ち上げられた竜涎香は将軍や諸大名への献上品となり、薩摩藩により長崎で売買された。琉球の近世文書では、竜涎香を竜糞または鯨糞と表現し、1628年の王府の掟書によると、白糞は米5石、海上を長期間浮遊した黒糞は米5斗と換算された。17世紀前半には、竜涎香の派遣者にはほうびを与える制度が確立された。真栄平房昭氏「南蛮貿易とその時代」(「新琉球史」古琉球編 琉球新報社 1991年)による。なお、この部分は富島壮英氏「寄物に関する一考察―竜糞を中心に―」(「沖縄の宗教と民俗」)という論文を参考にされている。


船が那覇の港に出入りするサンゴ礁の未発達な水域が2つあった。北に唐船口、南に宮古口である。