琉球を泡盛でシンボライズ

「残波」を2杯飲む。ロックで飲む。泡盛はうまい。


波照間島与那国島、黒島、竹富島新城島マラリア無病地だった。


国際通りが公式に行政上の通りの名称となったのは1987年のことである。リウボウデパートが、ベスト電器のあった位置からパレット久茂地に移転したのは1991年のこと。


宜野湾市街地は普天間基地を囲んでおり、普天間の町はそれに埋没しているように見える。宜野湾市役所や宜野湾警察署はもともと普天間にあり、警察署は普天間警察署という名称だった。これが南の330号線沿いに移転している。しかしながら、2004年12月に金武から路線バスで普天間に行ったときに、胡屋で客が私一人になると、運転手は「普天間で降りるのか?」と聞いたところをみると、胡屋の次の大きな町として依然として普天間が認識されているのであろう。佐喜真美術館は普天間基地の一部が返還された土地に建っている。バスを普天間宮の前で降り、普天間宮の見物のあと、ここで絵を見てから、琉球大学医学部附属病院まで歩いたことがある。途中、佐喜真美術館と田園書房で用をたした。球陽堂書房が天久、おもろ町に移転して、那覇の中心街からは田園書房くらいのそれなりの規模の書店がなくなった。


萩尾俊章氏「泡盛の文化誌」(ボーダーインク 2004年)に、「団々珍聞」で、琉球処分前の琉球の帰属に関して、琉球泡盛でシンボライズしている例が紹介されている。


食堂でチャンプルーやてんぷらをつまみに泡盛を飲む。ほろ酔いで外に出るとぬるい南の風、ふらふらと歩く。沖縄の夜の楽しみ。

屋宜から中城、中村家住宅を経て普天間まで歩いたことがある。中城までのバス路線は2001年にはあったが、2004年末時点ではない。勝連城へはバスで行ける。


「万国津梁」の銘が刻まれた首里城正殿前にあった梵鐘は1458年に鋳造された。


1684年に清は、琉球に対し、中国商船の救助と福州への強制送還を通達した。琉球薩摩藩に伺うことなく、これを受諾した。このことは、それまでの長崎への送還のシステムに抵触するため、薩摩藩から強く譴責されるが、1696年に幕府が許可した。福州への送還が最初に適用されたのは久米島に漂着した朝鮮人であり、最初から清の朝貢国である朝鮮まで含む拡大解釈がされていた。以上、豊見山和行氏「17世紀における琉球王国の対外関係」(「十七世紀の東アジア」山川出版社 2000年)による。


萩尾俊章氏「泡盛の文化誌」(ボーダーインク 2004年)に紹介された、尚順氏「古酒の話」(「松山王子尚順遺稿」尚順遺稿刊行会 1969年)によると、古酒の香りには「白梅香カザ」(鹿児島から入った鬢付け油の匂い)、「トーフナビーカザ」(熟れたほおづきの匂い)、「ウーヒジャーカザ」(雄山羊の匂い)の3種があるという。


明の正史「明実録」に、初代皇帝洪武帝が1372年に、楊載を琉球に遣わし、明への入貢を促した記事がある。これが、現在の沖縄を確実に琉球と表記した最初の例という。琉球は中国からの呼称である。那覇の久米小学校には1424年に創建された上天后宮の遺構である石門がある。