首里から見る那覇の町と遠くに浮かぶ慶良間列島は美しい

薩摩が幕府から受けた領知判物には、幕末まで奄美が琉球国の領内とされていた。国絵図でも奄美は琉球国の一部だった。


笹森儀助は尖閣諸島沖大東島まで行っているが、波照間島には行けなかった。


新井白石「南島志」に、「亦有蕃薯 可以代穀而食 此間俗曰琉球薯 即此」とある。新井白石もまた、サツマイモを琉球芋と呼んでいた。 


「おもろさうし」に「琉球」という語はない。


コザや糸満、名護の古くからの商店街の衰退は著しい。糸満は商店街の体をなしておらず、名護やコザの空き店舗は悲惨な状態である。那覇もにぎやかなのは国際通り三越以西と公設市場までぐらいで、それも観光客によることは土産物屋が軒を並べることでもうかがえる。観光客が少なくなる国際通りの安里側やアーケードの開南側はさびしいものである。


首里から見る那覇の町と遠くに浮かぶ慶良間列島は美しい。安良城盛昭氏も好きだったようである。