奄美で繰られた芭蕉糸は琉球に送られ芭蕉布となり

58号線を名護に向かうバスの運転手が停留所で待っていた乗客を車内に招くのに、手のひらを上にして手招きをするのを見たことがある。アメリカのテレビ番組を見ているようだった。1度だけの経験だったが、あれは沖縄の路線バスでは違和感のない光景だったのだろうか?そのときの乗客は特段の反応を見せなかったが。


奄美で繰られた芭蕉糸は琉球に送られ芭蕉布となり、薩摩藩により江戸や京都の高級織物となった。


ロックで飲むと泡盛そのものは琉球ガラスのグラス1杯あたり120CC程度の量である。


細川護貞「細川日記」(中公文庫 1979年)から引用。
1944年12月8日の記述「平塚に富田氏を訪問、高村氏の話として、琉球に於ける我軍は、軍紀弛緩し、民家に入りて物をとり、婦女を凌辱する等のことありと。是支那にありたる部隊なりと。」
1944年12月16日の記述「高村氏を内務省に訪問、沖繩視察の話を聞く。沖繩は全島午前七時より四時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃、機銃掃射を受けたり。而して人口六十万、軍隊十五万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十五里先の山中に避難を命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に到るまでそのまゝの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で挑発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるゝ等、恰も占領地に在るが如き振舞ひにて、軍紀は全く乱れ居り。指揮官は長某にて、張鼓峰の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと広言し居る由。島は大半南に人口集り居り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて、自活不可能なりと。而も着のみ着のまゝにて、未だに内地よりも補給すること能はず。舟と云ふ舟は全部撃沈せられ居れりと。来襲敵機は一千機、島民は極度の恐怖に襲はれ居り、未だ山中穴居を為すもの等ありと。(中略)那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり、竹の戦車等作りありたりと。」
長某とは、1931年10月に時の若槻内閣をたおし、軍政府を樹立するというクーデター未遂事件を起こした主要人物である長勇のことであり、当時は第32軍参謀長であった。また、高村氏とは、内務省防空総本部施設局資材課長兼国土局庶務課長の高村坂彦である。


「新琉球史近代・現代編」(琉球新報社 1992年)所収の石原昌家氏「沖縄戦の諸相とその背景」に、1913年12月から1914年1月まで琉球新報に敵が北谷から、宜野湾街道と嘉手納街道に分かれて侵入したのを浦添で迎撃するという軍事演習のシナリオが掲載されていることが指摘されている。これは第六師団(熊本)混成部隊の演習シナリオであるとのことである。31年後に同じことが現実に起こった。なお、沖縄県も第六師団の徴兵区域であった。


置県後置かれた学校は「大和学問」をさせる「大和屋」と呼ばれた。戸籍の導入により登録されることとなった姓名はふだんの生活では使わず学校で使われたから「学校名」と呼ばれた。