鹿島藩

636年に成立した隋書琉求伝が文献資料に琉球の名が見える最初の例である。もっとも、これが沖縄を指すのか台湾を指すのかは諸説あるようだが。この隋書琉求伝には、608年に琉求から隋に持ち帰られた布甲を、隋に来ていた倭国の使者が、夷邪久国人の使っているものだと答えたとのことである。この使者が小野妹子ら遣隋使である。


琉球処分により設置された沖縄県庁は那覇通堂の薩摩藩在番奉行所に置かれた。


天保4年2月15日から22日まで琉球謝恩使一行は首里への帰途、呼子に滞在している。


琉球処分により設置された沖縄県庁の官員の最大のシェアを長崎県出身者が占めていた。これは、初代県令鍋島直彬及び少書記官原忠順が鹿島藩主であり、その家老(といっても明治にはいってからであるが)であり、彼らが鹿島藩出身者を採用したからである。鹿島藩の地域は当時長崎県であった。菊山正明氏「沖縄統治機構の成立」(「新琉球史」近代・現代編)(琉球新報社 1992年)に簡潔にまとめられている。


リーフ(干瀬)の切れ目はクチと呼ばれている。沖縄県赤土等流出防止条例は1995年10月に施行されている。