恩納ナベや吉屋チルの琉歌

「歴史家が語る戦後史と私」(吉川弘文館 1995年)所収の高良倉吉氏の文から引用。
「沖縄において歴史研究は、明確に生き方の一つである。時代と社会が求めるのであれば、通常の歴史家のパフォーマンスがあってもよい。もしかしたら、時代や社会は歴史家のパフォーマンス部分のみで満足し、その裏側に横たわる歴史家の孤独な鍛練には注意を払わないのかもしれない。史料を求め、史料を解析し、解析した結果を正確な歴史像として構成する責務を負う歴史家のシャドウワークなど眼中にないのかもしれない。そのような無慈悲な要求にもし背を向けることがあるとしたら、少なくとも沖縄における歴史家の事業は敗北と言わざるをえない。しかし、シャドウワークは所詮シャドウワークにすぎない。要は、その基礎のうえにいかほどのパフォーマンスを演じきれたかである。」 


恩納ナベや吉屋チルの琉歌は、首里那覇に住む士族が作ったのではないかという見方がある。漢詩で西域の辺境をうたうものが、多くは都市の文化人の想像の産物であるように、琉歌でうたわれる農村の貧しさや別れもまた、首里那覇の都市の文化が見出した創作の素材なのであろう。このことは、これらの文化的な価値をさげるものではない。


九州で言う「きびる」は沖縄でも同様の意味で使われる。方言の広がりからいうと東北地方ではどうなのだろうか?


佐喜真興英「シマの話」は、「日本民俗文化史料集成」(三一書房)の「南島の村落」に所収されている。ここでは、ハルマーイといって、シマの決め事をやぶった者は、罰札を受け、シマの中で他に決め事を破っている者を発見し、罰札をその者に渡すまで、罰金を払いつづけるという風習(ハルマーイとは原、すなわち畑をまわるという意味らしい。)や、敷物の合わせ目の上に妊婦が寝ると双子が生まれるので、それを避けるというならわし、使用貸借と消費貸借では言葉が違う(ただし、金銭の貸借は使用貸借の用語を使う。)といったことなどが書かれている。
佐賀藩の史料でも、双子は母が恥辱のように思うということが見受けられる。なお、奥付によると、「日本民俗文化史料集成」の印刷は北京でもされているようである。


伊波普猷「古琉球」(岩波文庫)所収の「琉球に於ける倭寇の史料」(1905年初出)では、宮古島には殿の時代というのがあって倭寇が占領した時代であろうと説かれている。