琉球

久しぶりに「どなん」43度を飲み始める。強いアルコールが刺激的だ。泡盛はうまい。


2006年8月の天橋では、碧眼のエキゾチックな顔立ちの人々が屋台で西域風の商品を売っていた。再開発でほこりっぽい界隈、各地から人が集まる吹き溜まりだった天橋の歴史とあわせて印象深かった。


杉山正明氏「疾駆する草原の征服者」(講談社 2005年)では、元が日本に遣わした国書の文面は歴代の中国の王朝の外交文書よりも低姿勢であり、文永の役は日本が南宋と連動しないための作戦の一環であり、弘安の役の江南軍10万の大軍は、旧南宋の老弱兵の海外派兵の最初のテストケースでこれといった武装をしていた形跡がみられず、たずさえていたのは入植用の農機具と種もみであったとされている。


吉野作造北京大学学生騒擾事件について」は、1919年の五四運動についての論評である。この論評の終わりに吉野作造は次の通り記述している。「なお終わりに一言すべきは、吾人はどこまでも北京大学学生の取った方法に一種の反感をいだかざるを得ないことを告白する。ただ彼らの奮起した精神に至りては大いに共鳴するものがある。ことに彼らの排日を叫ぶのは、すなわち彼らの敵とするシナの官僚を操縦・籠絡した官僚・軍閥の日本を排斥するものであって、彼らの思想に共鳴する日本国民の公正を疑うのではあるまい。(中略)官僚・軍閥同士の親善は、断じて似而非の親善である。真個の国民的親善は、これからわれわれの隣邦開明の諸君とともに、打ち解かなければならない宿題である。」(「吉野作造論集」(中公文庫 1974年)) 


台北中正紀念堂蒋介石像の前の衛兵交替は観光名物となっている。蒋介石像のあるホールから控え室への入り口付近で、交替した衛兵といっしょに写真を撮る時間が設定されているようである。捷運中正紀念堂駅の壁面には他の駅のような広告はない。駅の照明なども他とは異なる威厳を演出した駅である。ただし、ホームには他の駅と同じ広告看板が設置されている。2005年8月の看板にはサロンシップを貼る竹中直人がいた。


基隆駅は行き止まりのターミナル駅である。台北駅からは40分ぐらいであろうか。台北からの東海岸まわりの鉄道は手前の八堵で分岐する。また、西海岸の優等列車の多くが台北までの運行であるため、基隆駅には優等列車の発着が少なく、近郊電車が主に発着する駅となっている。そのためか、台北の外港として発展し、もともと台湾の鉄道の起点だった基隆の風格ある駅舎には、かつての栄光の駅とでもいうようなうらぶれ感がある。基隆の繁華街もなんとなくうらぶれた感じがあり、台北との間の電車にはちょっと台北に買い物にいくという風情の乗客が多いことから、台北の発展のあおりを食った都市という印象がある。


台北空港の那覇行きの表示は中国語では「琉球」と書いて、英語でOkinawaと書いてある。奄美も含めたかつての琉球王国の版図を明朝以来、中国では琉球と呼んでいる。その名残りであろう。Okinawaと書いて沖縄と読むのは日本語だけなのだと改めて確認させられておもしろい。なお、台北空港から沖縄県内へは、那覇のみに航空路がある。那覇と上海を結ぶ便が開設されているらしいが、上海空港での表示はどうなのであろうか。 


中国の人口は清代中期の1750年頃から100年ほどで1億人程度から4億人程度に急増した。清末にいったん減ったあと、再び急増し、現在に至る。上田信氏「トラが語る中国史」(山川出版社 2002年)から得た知識。