ケンペルによる肥前佐賀藩領内の描写

1691年(元禄4年)に、オランダ商館長に随行して、ドイツ人医師ケンペルは長崎から江戸までの行程をたどり、その紀行文を残している
その中で肥前佐賀藩の風物がどのように記録されているかを抜き出し、メモとしたい。
いずれも、典拠は平凡社東洋文庫による。また、日付は彼が使った新暦によるものである。

嬉野村(嬉野町
2月13日に長崎を出た商館長一行は、14日夜明けに彼杵をたって、嬉野に入った。
嬉野は蓮池藩領であった。今でも有名だが、当時でもそうであったようで、ケンペルは村の近くの高い土地の上を流れていく小川の傍らの湯治場の構造を記録している。また、性病、疥癬、リウマチ及び中風に効能があるとして推賞されているとしている。
川の水がかなりの距離にわたって、湯気を立てていたようで、現在の嬉野には見られない景観があったようである。


塩田村(塩田町)
嬉野から2時間半かけて塩田に到着し、ここで昼食をとっている。
塩田では大きな水瓶が造られ、船で他の地方に送られている。
肥前の至るところで見つけられる白い油こい土から陶器がつくられており、土をこねたり引きちぎったりする必要があることから、美しい陶器を作るには「骨が折れる」ということわざができたとしているが、この真偽はどうなのであろうか。


小田村(江北町
塩田に1時間滞在して、鳴瀬(武雄市)やウェワキを経て小田に着き、ここで宿泊。
ウェワキとは、そのルートから推測するに北方町追分のことであろうか。一行はたくさんの沼のような川を渡ったと記録している。
現在でもこのあたりは海抜の低い水害常習地であり、流れの遅い川がいくつもあるところである。
ケンペル一行は、小田の手前で馬頭観音像がクスノキの下にあるのを見ている。
彼杵から小田までの道中の田圃には2、3歩の距離で2エレ(1エレは55センチメートルから85センチメートルとのこと。)を超えない高さの茶の木が植えてあり、小田の右手には他の場所より見事な田圃があった。
また、肥前には10の米の品種があるが、そのうちで最上の米は大村で取れ、将軍の食膳にのぼるとしている。


鳥井町(牛津町
翌日、小田を発った一行が次に通ったところだが、江北町牛津町の境界にあたる八幡宮門前町のことと思われる。
ここで初めて肥前の婦人を見ており、彼女はこの地方(日本のことか?)のすべての婦人と同様の美しい姿をしており、行儀の良い身のこなしをしているが、大層厚化粧なので人形と見まちがえるくらいだったようだ。
結婚すると眉毛を剃る風習を記録している。


砥川町(牛津町
鳥井町から1里ある。この距離は実際よりあまりに長いようだが。


牛津村(牛津町
砥川町から4分の1里。ここで人夫や案内者を代えている。


久保田村(久保田町
牛津村から半里。


嘉瀬津町
3つの地区からなり、東南に流れる大きな川(嘉瀬川であろう)のこちら側が徳万町(久保田町)であり、川に長さ150歩の橋がかかっている。
向こう側が焼餅町、すこし離れて橋の町(ともに佐賀市)。
徳万町と焼餅町では主として絹織物、紙、帆綱、蝋燭の芯を作っている。 
焼餅町と橋の町との間の空き地(嘉瀬の刑場であろう)で男が磔にあっているのが見られている。ケンペルによると、この男は木材を盗んで自分より若い男に叱られたのを恨んで、手ぬぐいでその男の首を絞め殺したものである。


扇町佐賀市
4分の1里進んだところにある。起点がどこか定かでない。


佐賀城下町
町は大きく、人口も多い。城壁は取るに足らず、城門には多くの番兵がいるが、防備のためというよりはむしろ飾りのためであるとされている。
民家は小さく粗末で大通りには物を作る仕事場や小売店が建ち並び、黒い暖簾が美しく飾っている。
住民は均整が取れていて小柄である。婦人に関してはアジアの中で一番よく発育し美しいとするも、いつもこってり、白粉を塗っているので操り人形と思いかねないと鳥井町のときと同様の感想を述べている。
周囲数里にわたって、肥沃な平野があり、河川が貫流し、水門が作られていて水の補給ができ、そのため、稲の少なからぬ収穫があり、加賀とならんで、日本で米穀類が最もよくとれるところで、家畜や果樹はほとんど見ないとしている。
一方、金色の文字で神社名を記した鳥居の他は寺や僧侶はほとんど見かけず、この地方ではほとんど尊敬されていないと思われると記録している。
なお、蛇足ながら、こうした感想の基準となっているのは、ケンペルの母国やこれまで訪れたことのある国々であって、日本の他の土地との比較ではないことを注意しておく必要がある。
ケンペル一行は佐賀に足を止めることなく、1時間半かけて城下を抜けている。郭外への門からは半里ほど松の並木が続き、男が二羽の鷹を手に止まらせ、丘の上には二羽のコウノトリがとまり、馬が田を耕していた。
当時の美しい情景が思い浮かばれる。


原町(千代田町
佐賀から1里。


神埼(神埼町
昼一時ごろに到着。家数700から800。ここで一時間ほど昼食。


轟木村(鳥栖市) 
家数500戸ばかり。神埼から3、4里。ここで宿泊。
以前は半里先の田代にとっていたところ、元禄2年に検視宮崎主膳の家来豊田五左衛門が大通詞を殺した事件があり、田代宿泊を避けることになったということである。(なお、ケンペルはこの2年前の事件を4年前と記録している。)
轟木村に着くまで、ハディ又はファディ(訳者の斎藤信氏は田手のことかとされている。)、三田川、中原を通り、松林を抜け、白壁の久留米城が見えたとのことである。


田代町鳥栖市
戸数は500〜600。ここは対馬領であり、2月16日に、ここで案内役が佐賀藩から対馬藩に交代している。



3月13日に江戸に到着した一行は、4月5日に長崎への帰途に着いた。
そして、5月4日に、山家を出て、再び肥前に戻ってきた。


田代町鳥栖市
帰途ではここの家数が400戸と記録されている。町の長さは4分の1里。


瓜生野村(鳥栖市
田代から半里。家数300戸。


轟木村(鳥栖市
帰途では家数が300戸と記録されている。ここで昼食。曲がりくねった町筋が半里続く。


村田町(鳥栖市
轟木村から半里。


中原村(中原町)
村田町から4分の3里。


寒水町(中原町)
中原村から4分の1里。戸数700。


切通村(上峰町)目達原(三田川町)
この辺まで一日中森林地帯。


田手町(三田川町)
目達原から4分の1里。


神埼(神埼町
田手から4分の1里。曲折して角の多い小路に700戸の家がある。ここで宿泊。
神埼では、たくさんの僧侶や寺院を見かけ、宿泊した部屋(寺院)の壁柱にはお札が貼ってある。
佐賀藩主(鍋島光茂)は、上席検使に雄鶏を、大通詞に塩漬けの雁を帰還祝いとして届けさせた。


片側宿(神埼町)姉(千代田町)原町(千代田町
5月5日に通過。原町は200戸。


高尾町(佐賀市
姉から1里。平底舟で川を渡る。


佐賀城下町 扇町佐賀市)嘉瀬(佐賀市
行くときと同じく、嘉瀬の刑場で5人の処刑されたばかりの犯罪人を見ている。これらの罪人は、放火の後、脱獄して捕まった者と、脱獄の折かくまった宿屋のおやじ。
なお、ここでは、嘉瀬は扇町から1里半で2つの地区からなると記録されている。往路の記録との齟齬はどのように考えたらよいであろうか。
また、相当の大回りでもしないかぎり、嘉瀬と扇町は1里半もあるとは考えられない。直線距離ではすぐそこである。
嘉瀬から泥炭を敷き詰めた120歩の橋を渡った。(往路では150歩となっている)


久保田村(久保田町
この村の西に道しるべあり。


牛津町 新町(牛津町
両地区間を船で渡っている。山を回った向うにあるので迂回したとあるが、平坦な地区であり、この記述はどういう意味かわからない。


鳥井町
山の麓を回ったところにある村。


小田町(江北町
正午にここで休憩。鳥井町との間に小さな村が一つある。


焼米(北方町)
荷物を積んだ舟に乗って川を渡り、それから、右手島原の海に注ぐ川にかかった大きな橋を渡った。
島原の海に注ぐ川とは六角川のことであろう。また、橋は現在の新橋にあたるものと思われる。


成瀬町(武雄市
ここでも舟で川を渡る。薪を売る市が立っていた。


塩田村(塩田町)
ここで宿泊。東に向かって流れ下る川には木材を積んだたくさんの船があった。


一里松村(塩田町)
5月6日に塩田村を発って、川が浅くなって石が多く出ているところを渡る。


美野村(塩田町)
山の麓の曲がりくねった村。


大草野村(塩田町)
山の右手の麓にある大きな村。


今寺村(嬉野町
川を渡り、所々の丘をこえる。


下宿村(嬉野町
ここに行くには広い谷を通る。


俵坂(嬉野町
国境の番所がある。番所の先に国境を示す2本の標柱がある。それに続く八軒の家がある小さな村の近くで佐賀藩主の使いが上席検使に別れを告げる。