勝海舟の佐賀県人評      

勝海舟は、その談話で歴史上の人物から現存の人物まで多くの人物評を行っている。
佐賀藩出身の3名について引用する。

鍋島閑叟
肥前鍋島閑叟侯は、名高い名君だが、すこぶる陽明派の学問に達して居られたといふことだ。文久三年の正月には、将軍家文武の輔導を命ぜられて、時々江戸城において将軍を訓導せられたのは、大名の中でも昔から例がないことだ。侯が一生国事に奔走せられたことは今更いふまでもなく世間に知れ渡って居る。」(講談社文庫「氷川清話」)
勝海舟陽明学の始祖、王陽明孟子以来の大賢と賞し、その知行合一の論をたたえている。また、西郷南洲ほどの大人物を見たことがないと論じているが、その西郷も陽明学に私淑していたらしいと言う。
また、氷川清話の人物論全体として、勝海舟は、思想に行動がともなう人物を評価している。
閑叟を陽明派の学問に達していたとする評価は勝海舟の彼に対する高い評価を示すものである。

大隈重信
「今度の内閣も、もはやそろ/\評判が悪くなって来たが、あれでは内輪もめがして、到底永くも続くまいよ。全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質がまるで違って居る。板垣はあんなお人よしなり、大隈は、あゝいふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか。早晩必ず喧嘩するに決まって居るよ。」(講談社文庫「氷川清話」)
「大隈さんはなか/\如才ない人で、ことに議論はなか/\うまい。聞けば成程感服する。伊藤さんの方もソウである。しかしそのやるところになると五十歩百歩だ。藩閥の何のと騒いだところがこんなであっては別段有難くもなんとも無い。伊藤さんの前内閣が起る頃には世間で大評判をした。ところが私の見込みを付けた通り、果して半ケ年も持たなかったではないか。大隈さんもやはり一種の藩閥だもの、どうなるものか。」(講談社文庫「氷川清話」)
明治31年6月に自由党進歩党が合同した憲政党を基礎として発足した第一次大隈内閣にかかわる発言である。この内閣は4か月間の生命だった。。
大隈について、彼の伝記でしばしばふれられる、抜目のなさ、雄弁家といった面を勝海舟も指摘している。
また、この内閣は伊藤博文内閣を継いだもので、発足時には民党合同による政党内閣だとして、発足当時世上の評判が高かったものだが、勝海舟はたいした評価を与えていない。この時期、入れ替わり立ち代りできる内閣や政府要人に対し、勝海舟は全体に高い評価を与えておらず、どんぐりの背くらべと評している。いわゆる維新三傑、西郷、木戸、大久保を思い出すと言っているし、維新後の支配層は彼ら薩摩長州の先達を追随しているだけだと考えているようである。(尻馬に乗ったと表現している)
大隈というか、大隈の活躍した環境に対する上記の評価もこの流れと言える。

大木喬任
「大木は肥前人の中で第一の太ッ腹だった。皆な内閣を退いた時、をれとあれとが残って居て、暇で毎日話ばかりしてよく知って居る。(中略)大木もせめて二三十両づつでもアレ等にやればいゝのに、其のケチな事を初めて聞いた。(中略)余程の金持だよ。」(岩波文庫「海舟座談」)
だそうである。
なお、これは、明治29年10月21日の談話だが、この日の談話では肥前戊辰戦争の際は土佐と同様に日和見であったとか、大隈重信のことを人がかれこれ言うから、誰でも足一本切られては(明治22年10月18日、来島恒喜が爆弾を投じ、大隈は右足切断の重傷を負う。)余程英気が減るものと弁護しているとも発言している。
ここでは、大隈はその仕事を評価されるのではなく、その行動がはかばかしくないことに同情されているのである。
なお、「皆な内閣を退いた時」とは、明治6年政変で西郷、後藤、板垣、江藤、副島が参議を退いたことをいうものと考える。
このとき、大木喬任は既に参議であったが、勝海舟は彼らと入れ替わりに参議となった。しかし、勝海舟はそれ以前、明治5年5月から海軍大輔をつとめており、参議になると同時に海軍卿となったものである。
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早朝六時三十分発の桜島行きフエリーに乗る。潮の匂いがする。小林旭になったような気がする。